知っておきたい「キャリア権」の基本第2回:個人の「キャリア権」と企業の関係 ―「人事権」と「キャリア権」

第1回では「キャリア権」とは何か、今、なぜ求められるのか、キャリア権を尊重することで企業にどんなメリットがあるのかをお話しいただきました。第2回では「人事権」と「キャリア権」の衝突をどう考えればいいのか、また、具体的にどのような工夫をすれば、組織全体の成果を上げながら、社員のキャリアを尊重できるのか、実践例とともに教えていただきます。

2018.08.08
専門家コラム

キャリア権は個人の主張を通すための道具ではない

キャリア権が認められるようになると、企業側としては「権利ばかり主張されても困る」、濫用も起きるのではという心配もあるのでは?

濫用する人が出てくる可能性もあると思います。しかし、濫用が起こり得るのは人事権も同じですし、一部に濫用する人が出てくる可能性があっても、その権利が社会的に重要で意義があることに変わりはありません。自動車を運転する権利はあっても、危ない運転をする権利はどこにもありませんが、危ないことは起こり得るわけですよね。だからといって、自動車を運転する権利をなくそうとはならない。その権利を行使する正当性をどこに認めていくのか、運用や使い方の問題です。

キャリア権によって、「自分はこの分野で専門性を高めたいから」と配置転換や出向を拒否できたり、個人の能力にかかわらず一律に役職が停止され、給与が削減されるのは不当として「役職定年」が許されなくなるといったことも起こり得るのでしょうか。

そうはならないと思います。「権利」という言葉から、相手を従わせるような強制的なイメージを思い浮かべる人も多いかもしれませんが、キャリア権は個人の主張を押し通すための道具ではありません。特定の人に一定の行為を請求する権利を「請求権」と言いますが、キャリア権は当面、具体的な法的強制力を持たないプログラム規定に過ぎず、相手方である雇用主などに対して直ちに請求権が生まれることはありません。「私にはキャリア権があるから、雇ってください」などと主張できるものではないのです。

人事権も同様です。人事権は法律で直接定義されている権利ではなく、労使間で結んだ労働契約に基づくもの。労働契約の範囲を超えて行使することはできません。

人事権とキャリア権は対立ではなく、対話をする関係にある

ところが、現実には職場において人事権は大きな力を持っています。

労働契約の契約条項を設定する際に、社会の雇用慣行を踏まえ、取引上の力関係で優位にある側が組織側の権利を確保しがちだからです。キャリア権も労働契約の締結内容にキャリアの尊重や配慮がもっと規定されていけば、実現が大きく進むでしょう。しかし、現状では一定の人事権の行使がキャリア配慮の観点から濫用と判断され、無効になる可能性があるというレベルに留まっています。

配置転換や出向、「役職定年」による役職の停止や給与削減は内容に合理性があり、社会通念上相当と認められるならば、人事権の濫用とはみなされない可能性が高いでしょう。また、ジョブローテーションは専門性の深化にはつながりにくいかもしれませんが、幅広い経験によって、視野が広がるという点においては個人の能力開発にとってプラスであり、一概にキャリア権が否定されたとは言えません。「役職定年」も一般に組織全体を見れば理にかなっており、より若い世代のキャリア権の尊重という見方もできます。

ただ、例えば、IT技術者としての経歴と能力を見込まれ、本人もその道でキャリアを積むことを希望し了解されて入社したとします。当初はIT技術者として配属され、専門能力を高めようと日々努力をしていたのに、組織の都合で倉庫の管理業務に異動を命じられたとします。不服を申し立てたら、「イヤなら、辞めてください」と言われた場合、黙って従うしかないのでしょうか。実際には組織にも個人にもさまざまな事情があると考えられますが、人事権があるからといって、組織の都合だけで個人の契約や慣行によるキャリア事情をないがしろにしていいはずはありません。実際、配転命令に合理性がないとして裁判で無効と判決が下された例もあります。

同様のケースであっても、会社が入社時に異動の可能性をはっきり伝えていたり、日ごろから面談などを通して信頼関係が築かれていたりしたうえで、「組織の事情で当面こういう業務をやってほしい」と言われ、「将来のキャリアはかくかく、しかじか」などと説明されていたならば、社員の納得度も違ってくるでしょう。

個人のキャリア形成が注目されるようになればなるほど、人事権とキャリア権の調整が必要な場面は増えてくると予想されますが、人事権とキャリア権は対立するものではありません。むしろ、補完関係にあります。会社と個人がお互いに納得できるキャリア形成を実現するには両者の対話が重要であり、キャリア権はその対話を前向きに促すきっかけになると考えています。

日本にも「キャリア権尊重企業」が現れはじめている

どうすれば組織全体の成果を上げながら、社員のキャリアを尊重できるのか。対話の重要性を認識しつつも、一定規模以上の組織になると、実際に一人ひとりの社員の希望を尊重して配属したり、業務を割り当てるのは「手間がかかり過ぎる」という企業の本音もありそうです。

確かに大規模な組織で、中央集権的な人事をしているところは、個人の希望だけを聞くわけにはいかないことも多いでしょう。一方で、個人が自律的なキャリア形成を支援するような人事労務管理を実践している企業が日本にも出てきています。

世界シェア80パーセントの半導体メーカーの「ディスコ」では、社員が勤務地や業務を自由に選べる人事制度が確立されており、社命による異動はあまりありません。本人が手を挙げ、異動先の上長の許可が降りれば、異動元の上長は反対できない仕組みです。その結果、元の職場も人材を引き付けよう、維持しようとしますが、人が足りなくなれば、外注することも認めているそうです。また、関連情報を得て判断できるよう社内アプリを開発して人事情報などを社内で共有しています。「自由な異動」を保証することによって社員のモチベーションを高め、人材の流出を防ぐことを狙っているわけです。

こうした「キャリア権尊重企業」と呼べる企業は、外資系にはさらに多くの例が見られます。日本ヒューレット・パッカードは社員がキャリアプランを自ら考えることを人事制度の基本としており、2週間から月に1度行われる「1 on 1」という上司との1対1での対話でもキャリアプランについての情報共有を行うことになっています。さらに、部下のキャリア支援は上司の責務とされており、360度評価の対象にもなっています。

また、P&Gジャパンでは上司が部下のキャリア展望を定期的に問いかけ、会社と上司がそれをどう支援をするのかを話し合ったうえで文書にします。個人の希望や適性を配慮し、「将来的に工場長になるには人事の経験も必要、海外勤務の経験も必要」というように、計画的にキャリアを積ませていくのが同社の方針。長期的なキャリアプランの実現がしやすい環境があります。

社員のキャリア自律を尊重することによって、これらの企業の経営効率が低下したり、人材流出が起きたりしているかと言えば、そんなことはありません。一人ひとりが自分のキャリアの予見性を高め、企業と共通理解をもち、それへ向けて能力をしっかりと発揮できるようになることで、むしろ企業競争力が強まっていますし、社員のエンゲージメントも高まる関係にあります。

ただし、人事の中央集権型から分権化をしていき、現場の管理職も部下のキャリア形成に主体的に関わることが必要になりますし、個人もキャリア意識を高めないといけませんから、個人のキャリアを尊重し、支援する風土や仕組みは一朝一夕ではつくれません。社員のキャリア形成を組織主導で行ってきた企業が急に組織改革を試みようとすれば、大きな副作用も生じかねません。それぞれの企業の文化や雇用慣行、実態に合った方法を模索していくことが大事です。


最終回は、社員のキャリア自律のために組織は何ができるのか、真の自律を実現するためにどのようなキャリア支援を行えばいいのかをうかがいます。

第3回:「キャリア権」の理念を実現するために ―「投機的」ではなく「投資的」なキャリア形成を

諏訪 康雄(すわ やすお)

法政大学名誉教授 / 認定NPO法人キャリア権推進ネットワーク理事長
専門は労働法・雇用政策。
1977年法政大学社会学部専任講師。助教授、教授、大学院政策科学研究科教授を経て、2008年同学大学院政策創造研究科教授。2013年同大を退職、名誉教授。労働政策審議会会長など、政府審議会等の委員を歴任。中央労働委員会会長、日本労使関係研究協会常務理事、経済産業省社会人基礎力に関する研究会座長、経済産業省社会人基礎力育成グランプリ審査委員会委員長なども務めた。

主な著書
『雇用と法』(放送大学教育振興会、1999年)
『労働者派遣法の改正と職業紹介の見直し』(教育文化協会、2000年)
『職業キャリアをどう支援するか』(教育文化協会、2003年)
『労使コミュニケーションと法』(労働政策研究・研修機構、2006年)
『キャリア・チェンジ! : あきらめずに社会人大学院! 新たなキャリアを切り拓こう』(生産性出版、2013年)
『雇用政策とキャリア権-キャリア法学への模索』(弘文堂、2017年)

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